2023年10月8日に金蛇水神社(かなへびすいじんじゃ:宮城県岩沼市)に行きました。
ちょうど「秋季例祭」の日でした。
鳥居をくぐると藤棚があり、秋詣の期間はたくさんのサンキャッチャーが飾られていました。
透明と薄い紫と紫のクリスタルがキラキラとかがやいて、とてもきれいでした。
調べると、藤をイメージしたサンキャッチャーなのだそうです。
その後は参拝したり、「中に蛇の紋様が浮かぶ石」を撫でたりしました。
一緒に行った母いわく、わたしが幼かったときにわたしを金蛇水神社に連れて来たことがあるとのこと。
わたしは覚えていませんでしたが、実家にあるアルバムに写真がありました。
おそらく25年以上前に撮った写真で、
いまのわたしとほど遠くない年齢の母と、当時愛してやまなかったアニメのTシャツを着たわたし(玉こんにゃくを食べている)、そして「キャベツ人形」の3人?で写っていました。
藤が咲いている季節に行ったようで、藤棚にはたくさんの藤が。
じぶんにまつわるむかしの写真を見ると、どうしようもなく切なくなるのは、
わたしだけでしょうか。
写真のなかに、無邪気ということばそのものを表したような笑顔。
わたしはそういう笑顔を見るたびに
「この時はなにも知らなかった」
とこころのなかでつぶやいてしまいます。
これからどんなできごとが訪れるか、なにも知らなかった、と。
そして同時に、この時に戻れたらとも思ってしまいます。
無邪気に笑って、遊んで、母に甘え、ひたすらに守られているじぶんに戻れたら、と。
(でも当時のじぶんに訊いたら、無邪気じゃないし、それほど遊んでないし、ママとは衝突してばかり、孤独を感じてたよ、なんて答えるかもしれません。記憶は、たよりないものです)
むかしの写真を見て、どうしようもなく切なくなるのは、大人になった証なのだと思います。
想像していなかったたくさんのできごとが蓋然的に積み重なって、いまのじぶんができ、
知りたくないことを知って、はたらいて、ひとりの人間になり、守るべきものを守ろうとする人になったということ。
暴力的な時のしくみであり、奇跡の結晶でもある。
とはいえ、無邪気に笑い、遊び、母に甘え、だれかに守られている安心感に包まれていることを望むじぶんも、捨てる必要はないと思っています。
どんなかたちであれ、大人になったじぶんなりの方法で「子ども時代」を生き直すことはできるのではないでしょうか。
P.S.
金蛇水神社での参拝を終えたあと、ぐうぜん看板を見つけたそば屋さんで昼食を。
山のような場所にあり、向かう道中にスマホが圏外になりました。
駐車場から店の前まで坂を登ると、ヒガンバナやコスモス、キンモクセイなどが咲いており、すでに良い気分。
席につき、わたしが食べたのは「花おろしそば」。
そばの上に、野菜の天ぷら、オクラ、舞茸、なめこ、ズッキーニ、大根など季節の品がのっていて、そばつゆを直接かけて食べるタイプのそば。
ひとつひとつの具材の味がすきとおっていて、とっても気に入りました。
席からは外の自然を眺められ、卓上には花が飾られてあったりと、目にも癒やし。
「手打そば 花いかだ」というお店でした。(宮城県柴田郡柴田町)
花いかだとは「水面に散った花びらが連なって流れているのを筏に見立てた語(コトバンク)」だそう。
すてきな言葉です。