5月4日
母とお出かけ。行きの車で母は昨日の夜こわいことがあったと話す。鳥らしきものが家の窓だか屋根だかにぶつかったのか、すさまじい音がしたと。
ちなみにインターネットの情報によると、鳥がぶつかってくるのは吉兆だそうです。
向かった先は加美町にある「やくらいガーデン」。
規則正しく並べられた花、もちろんきれいだけれど、山に咲いているような花のほうがわたしは好きだなと思いつつ園内をまわり歩く。いまは菜の花の季節だそうで、菜の花がいちめんに咲いている区画もありました。
退園し、すぐ近くにある遊歩道(薬莱山の登山口までつづく、桜並木の道)を進む。上り坂で母はバテていたけれど、わたしはこういう道が好きなのです(写真がなくざんねん)。
その後は大滝農村公園キャンプ場にある「もち処大滝」へ。母の知人のすすめで立ち寄った場所で、とりわけもちが好物というわけではないわたしはしぶしぶ… という心もちでしたが(もちだけに)、これがたいへん好きな場所でした。
まず、匂いが良い。ふるい木造建物に染みついたような匂い(俗にいうおばあちゃんちの匂い?)。そしてなぜか静かだ。お客さんが何人かいたのに、しんとして、すがすがしい。調理場に見えるおばさんたちの姿も、良かった。
もちはやわらかく、愛食しないわたしでさえもおいしいもちだとわかる味。使う水がきれいだからかな。
その後は「やくらい土産センター・山の幸センター」に寄り、母はせりとたぬきのおむすびとはちみつ(百花蜜)、わたしはタケノコごはんと切り干し大根を購入。玉こんにゃくも買って、1本ずつふたりで食べ、帰路につきました。
5月5日
カレーの夢をみた。いくつものお皿にカレーが盛られている。
昨日の日記を「なんでもノート」に書いていたらいちにちが過ぎた。
5月6日
実家に寄る日。午前中に母が車で迎えにきてくれ、その足でお墓参りなどをいっしょにすませてから実家へ。祖母も交えて3人で昼食をとった。
ふるい思い出話のなかで、
あの場所ってどこだっけ?/覚えてないの? すぐ近くの、ほら公園があって(名前は思い出せない母)/ん〜(わからない)。アルバムにある?/あったと思うよ
というようなやりとりをした。そして昔のアルバムをひっぱりだし、答えあわせをした。写真を見たら、場所の名前をはっきりと思い出した。
わたしは今年30歳になる。けれど顔つきは幼くよく学生に間違えられる。だから、いまから10年前も、いまから10年後も、あんまり変わらないだろうなと思っているふしがある。
でもアルバムを見ると、すっごく変化してるのだ。びっくりし、ちょっとこわくなる。じぶんも、いつか死ぬんだな、と。
5月7日
スマホ(インターネット)から自由になりたいわたし(あなた)のための質問リスト:
- あなたはほんとうにそれを調べる必要がありますか?
- あなたはそれを今すぐ調べる必要がありますか?
- あなたはほかにやりたいことがあるのではないですか?
スマホ(インターネット)に依存してしまうのは、意思が弱いからとか根性がないからとかではなく、そもそもスマホ(インターネット)は人間ならばだれでも依存してしまう作りになっているからだ。そのことに気がつくのにわたしは時間がかかった。
わたしは今すぐ調べなくてもいいけれど調べなければならないことは、すぐには調べずふせんに書きとめておくようにしている。そして「ほかになんにもやること(やりたいこと)がない」というタイミングがきたら調べるようにしている。
すぐ調べたほうが効率的では? という見方もあるけれど、わたしはある商品について調べようとスマホをさわったら、その2時間後にはどこの馬の骨かわからぬ人の闘病日記をいっしんに読みあさっているような人間なのである。そしてその闘病日記を読みおわったときには、なぜ自分がそれを読みはじめたのか、そもそもなにを調べようとしていたのか、頭は砂嵐で途方に暮れる。
こういうエネルギーの使い方は、ほんとにかなしいと思う。
5月8日
甘夏を買ったけれど剥くのがへたで、食べられる部分がほとんどなくなってしまった。
味は、すっぱい。甘夏と書くくらいだから甘いのかと思いきや。(でもこれはこれでよろしい)
YouTubeで甘夏の剥き方を調べ、次回(はたしてまた買うのか)に備える。
5月9日
仕事の日。
よく、人が言っていることにかんして、
(ああ、ちがうんだよ)
(そういう意味ではなくて…)
と説明したくなる瞬間があるけれど、もう説明せず、その人が話しおわるまでだまっていようと思った。
人から誤解されることはほんとうにくやしくかなしい。
でもどんなに人から誤解されようとも、人は生きていていい。
その人に自分をちゃんと理解してもらえなくても、生きていていいのだ。
5月10日
仕事の日。
「雰囲気変わったね」と職場の人がニコニコと言ってきた。(髪が伸びすぎたので)いつもとちがう髪のまとめ方にしたことを、気づいてくれたのだ。とてもうれしい。
そう、気づいてもらえることは、うれしいのだ。
(つづく)